今日のお昼ごはん

今日のお昼ごはんは葉っぱを食べた。おいしかった。私は葉っぱを食べたのだ。読者の皆様は葉っぱを食べているだろうか。

読者の皆様を驚かせてしまって申し訳ない。私の気が狂って葉っぱを食べたのだと誤解させてしまったかもしれない。しかし、私が葉っぱを食べたことは事実だ。加えて私は気が狂ってはいない(もともと狂っているとも思えるため、変わっていないと表現すべきかもしれない)。

コミュニケーションは難しい。おそらく私は間違っていないし、読者の皆様も間違っていない。では我々はなぜすれ違ったのだろう。誤解の深層に迫ってみるのはいかがだろうか。ステイホームだし。

葉っぱを検索すると「『葉(は)』に同じ。」(デジタル大辞泉)とのことである。では「葉(は)」とは何たるか。「葉(は)」とは「植物の茎や枝につき、光合成と蒸散を主な役割とする器官。秋に落葉するものと越冬するものがある。ふつう緑色で、葉身・葉柄・托葉の3部分からなり、葉身の形から単葉と複葉とに分けられる。」(デジタル大辞泉)。葉は植物についているものであることがわかった。では「植物」とは何であろうか。「植物」とは「生物を大きく二大別した場合の、動物に対する一群。木や草、藻類など。一般に、1か所に固定して暮らし、細胞壁をもち、光合成を行って主に空気や水から養分をとって生きている生物。種子植物・シダ植物・コケ植物・緑藻植物・紅藻植物などに分類される。」(デジタル大辞泉)。

実はお昼にレタスのサラダを食べたのだが、回りくどく言ってみた。というのもステイホームで暇だからだ。

言葉というのは不思議である。言葉を説明しようとするときに、先の葉っぱの例のように言葉の意味を説明、定義する言葉があり、またそれを説明する言葉がある。中心や核心のない存在である。

それぞれの人が言葉のイメージを持っていて、それぞれの人が持つイメージを言葉で説明するのは容易ではない。ニュアンス、語感と呼ばれるものだろうか。

著名な哲学者ウィトゲンシュタイン論理哲学論考の有名な一節「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。哲学的な読解はよくわからないが、言葉のニュアンスや語感は語りえぬものになりはしないだろうか。事物をいくら詳細に定義しても、それぞれの人が持つイメージは各人の経験や言葉を知ったきっかけなどに左右されるため、絶対的なイメージは説明できない。
例えば結婚と言った場合には、ある女性には人生のゴールであり幼い頃からの憧れであるが、ある男性からすればそれは墓場だ。

結局のところ何が言いたかったかというと、お昼にレタスを食べた、ということ。それを皆様に知ってほしかった。